渋澤健氏インタビュー

「次世代に紡ぐ想い。~滴から大河に。渋沢栄一の教え~」第4回

聞き手 / PE&HR株式会社 代表取締役 山本亮二郎

 日本資本主義の父といわれる渋沢栄一の五代目にして、新しい資本主義の在り方を社会に問い、「滴から大河に」を実践する渋澤健氏。30年先を見据えた長期投資を掲げ、2008年9月にコモンズ投信を立ち上げました。次代に向け、渋澤氏は何を思うのか。また、渋沢栄一の「論語と算盤」を読み解いた渋澤氏の経営思想をお聞きしました。

■渋沢栄一の投資手法

―渋沢栄一は合本主義*18によって、経営権を支配せずに500の会社を創りました。この投資の考え方などについてお聞きできますでしょうか。

 一つは、資本は支配するためのものではなく、土台づくりのためのものである、という考えを持っている点が挙げられます。みんなのお金を集めて、みんなに富を分配しましょう、ということを考えていました。もう一つは、渋沢栄一はインフラを創ろうとしたということです。なかには投資組合のようなものもあったのですが、500の会社と600の社会事業を創りました。社会事業とは、学校、病院などで、こちらはノンプロフィットだけれども、社会のインフラですよね。

 渋沢栄一の時代は、封建時代から近代社会に入る時期です。過去の常識が非常識になり、過去の非常識が常識になるという、新しい時代への転換期でした。新しい社会の基盤をつくらなければいけない時代だったんです。「自分ひとりじゃできることは限られているから、いろんな人を巻き込んで一緒にやりましょう」というのが渋沢栄一の投資の考え方です。当然、たくさんの人から集めるなら、たくさんの人に還元しなければならない。

 500社を創ったということは、実は、ずっとその会社の株を持っていたわけではないんですね。ある意味、シードキャピタル*19だったんです。立ち上げたいときに、お金とか名前とか経営とか必要なことがあれば自分も動いた。会社が立ち上がったときには、自分が経営から退くとか、資本を引いてまた次の会社に入れるということをやっていたんですね。ですから、子孫である我々には何も残らないと(笑)。

■商人としてのDNA

― 渋沢栄一自身の最初の投資資金は、どのようにして作られたのでしょうか。

 栄一が最初に出資したのは、静岡藩の殖産興業を目的とした商法会所を設立したときです。会頭に就任する際に、個人的に倹約して貯めたお金を出資しています。*20

 栄一は、埼玉県の深谷市というところの大農家の長男として生まれました。当時の渋沢家では、自分たちでも蚕を飼育していたのですが、農商といいますか、周りの農家から買い入れて、それを売って商売をしていたんです。いい品質のものは高く買って、悪いものは安く買って売っていた。それなりに裕福な家庭に育ちました。
 栄一は子供の頃から、「論語」も含めて学問に触れる機会が多く、知識があったんです。当時は、江戸時代という封建社会の最後の時代で、仕事もしていないのに武士が威張ってばかりいましたので、「幕府はけしからん。腐っている」と尊王攘夷に走ったんです。既存の体制に対して、怒りもあったんですね。

― 徳川家に仕えていたこともありましたが、どのような経緯だったのでしょうか。

 それもたまたまのご縁というか、偶然が重なったんです。尊王攘夷を実践するため、高崎城(現在の群馬県高崎市)の乗っ取りと横浜で外国人を切り払って幕府を倒そうと計画していました。今の時代で考えると信じられないというか、テロリストみたいなことをしようとしていたんですよね(笑)。栄一が武士だったら最後までやってしまうんでしょうけれども、最後の最後で自分が死んだら意味がないと計画の実行を断念したんです。商人だったので、このやり方は合理的ではないなと引き際がわかったんじゃないかと思います。

 それでも、国家の危機を感じて起こした行動の志は変わらず持ち続け、手段を変えようと考えたようです。一橋家に入ったのは、今で言えば勉強会みたいなところに出入りしていて、平岡円四郎という一橋家用人と出会ったことがきっかけです。平岡の勧めで、一橋慶喜が将軍になる前に、一橋家に仕えるようになりました。そうしたら、慶喜が将軍になってしまった。一橋家には栄一の従兄も一緒に仕えていたのですが、「倒幕しようとしていたら幕臣になってしまったとはあり得ない。俺は辞める」と言って、その従兄は一橋家を辞めようとした。でも、栄一の考えには柔軟性がありました。そこが商人らしいというか、外から幕府の体制を変えられなかったけれども、内側から変えられるかもしれないと思ったんですね。

 後に、徳川慶喜の実弟の徳川昭武に随行してパリ万博とヨーロッパ各国を視察して回ったのです。7~8年前には切り払おうと思っていた外国人の世界を目にしたら、「これは使える」と発想を切り替えたわけです。このあたりを見ると、商人としてのDNAのスイッチがオンになっていたんだと思います。

■渋沢栄一と岩崎弥太郎

― 坂本龍馬*21とは交流があったのでしょうか。

 いや、なかったみたいですね。

― 岩崎弥太郎*22との関係については、どのように捉えていますでしょうか。

 渋沢栄一と岩崎弥太郎は対立していた、とすごくセンセーショナルに捉えられていますけれども、あの当時の人たちは結構ダイナミックだったので、ぶつかりあったり仲良くしたりと色々あったと思うんです。向島で岩崎弥太郎が主宰した宴席に栄一が主賓として招かれたときに、主張がぶつかり、激しい議論になってから対立するようになったと言われているんですけれども、その後、一緒に東京海上保険を創っているんですよ。実際に対立したのは汽船会社でのことです。岩崎の三菱商会に対抗するために、益田孝と三井の資本で共同運輸会社を創って、ダンピング競争を繰り返した。最終的には、共倒れしそうになったので、合同して日本郵船を設立するという流れになったんです。

 経営思想など価値観の違いはあったと思います。岩崎弥太郎は、支配型。「俺がトップをやらなければいかん」というタイプです。一方、渋沢栄一は「みんなで」という思想です。だけど、岩崎弥太郎の2代目や3代目とも交流があって、渋沢栄一の孫の敬三は、岩崎弥太郎の孫と結婚をしています。結婚式の写真を見たことがあるのですが、仲人が弥太郎の息子の久弥だったと記憶しています。その二人の子供の渋沢雅英(4代目の長兄)という、渋沢栄一記念財団の理事長をしている僕の伯父はきわめてレアな人で、渋沢栄一の曾孫かつ岩崎弥太郎の曾孫なんです。

■当事者意識を伝える「論語と算盤」

― 手を取り合うところは手を取り合った。ただ、資本主義に対する考え方は違ったということですね。渋沢栄一が近代資本主義に果たした役割というのは、今の時代に与えているメッセージとして、何が一番大きいと思われますでしょうか。

 「当事者意識」ということではないかと思います。「論語と算盤」って何かというと、道徳と経済ですよね。決められたルールで行動しなさいという「HOW TO」ではなくて、「在り方」を示しているわけじゃないですか。「在り方」というのは、まず理想があって、自分をどうやってその理想に近づけていくかを意識してやりなさいということを言っているのです。
 時代背景を考えてみますと、当時の商人というのは、毎日都合よくコロコロと考えが変わっていました。海外に輸出をしている企業のなかには、偽物を送ってしまったりするようなところもあったようです。同業者が偽物を輸出したために、自分は一生懸命やっていたにも関わらず同一視されてしまった、という実業家の話もあります。日本から来るものは、みんな不良品だと思われてしまったのです。
 最近では、中国の餃子の話がありますけど、実際はそうではないにも関わらず、中国の食べ物のすべてがダメだと思ってしまうじゃないですか。当時は、日本からアメリカに物を持っていくと、同じように思われていたんです。だから、一人ひとりの商人が日本の道徳をきちんと意識して商売をしよう、と呼びかけたんです。そうしないと、自分だけじゃなくて、国全体の信頼が損なわれてしまうと訴えました。まさに、当事者意識じゃないかと思うのです。一人だけが良ければよいということではなくて、一人の行動がみんなに影響を与えるんだと説いているわけです。だから、一人ひとりが集まって創られた「資本」というのも、そこに参加している一人ひとりが当事者意識を持たなければいけないと思います。

 『論語と算盤』は、実はアダム・スミス*23の『国富論』と同じことを言っていると思っています。アダム・スミスと言えば、自由主義、つまり「見えざる手」のことを思い浮かべますよね。だけど、ほとんどの人が認識していないのではないかと思うのですが、アダム・スミスは道徳哲学者として世に出てきたんですね。確か、『国富論』の17年前に『道徳感情論』を書いていて、そこで「シンパシー」という言葉を使っています。これまでお話をしてきた「共感」を表わす言葉です。アダム・スミスは、道徳をベースとした上で、規制がなく、自由に動ける人たちがいる経済社会では「見えざる手」が富をつくると言っているのだと思います。
 アダム・スミスのことを言う人のなかには、自由のところだけを考えていて、土台となる道徳のことを見ていない人がいるんですよね。このことは、渋沢栄一が言っていた、算盤だけではなく、論語というベースとなる道徳がないとだめだということと同じですよね。

 僕自身は、経済に道徳を持ち込むという主張は、渋沢栄一が最初に考えたことではないと思っているのです。おそらく、昔から商業が発達してくる過程で、「相手をだましてはいけない」「自分だけ分捕ろうとしてはいけない」と言われていたんじゃないかと思います。一人ひとりが当事者意識をもって全体をつくるということを考えることは、とても大事なことだと思います。

■「ヒューマンアーカイブ」を創りたい

― 最後に、影響を受けた3冊と今後のビジョンを教えてください。

 一つは『生命の暗号』です。著者の村上和雄先生*24とは、すごく縁を感じています。本を購読したきっかけは、日経新聞の広告でした。よく農耕民族と狩猟民族に区別して、日本人は農耕タイプとか言われますよね。私は外資系にいましたけれども、日本人のDNAを持ちながら狩猟タイプで成功する人が周りにたくさんいたので、どうも腑に落ちなかった。環境が違うだけじゃないのかなと思っていたら、この本でも同じことを言っていたのです。良いDNAをつくるには、良いDNAのスイッチをオンにしましょうと書いてありました。良いかどうかは、スイッチがONかOFFかの違いでしかないと。良いDNAのスイッチをオンにするためには、自分を良い環境におきましょうというのです。いつか、お会いしたい方だなぁと願っていたら、その数年後、経済同友会の委員会に講師としてお話しされ、隣の席だったので、「サインをください」と本を差し出しました(笑)。それから数年後、『致知』という雑誌に村上先生の対談コラムが掲載されていて「いつか対談したいな」と思っていたら、なんと致知から連絡が入り、村上先生が私と対談したいと。うれしかったです。
 二つ目が『GOOD TO GREAT』。日本語でいうと『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』。「なんで世の中にグッドはあってもグレートカンパニーがないんだ」ということが最初のページの一行でした。「それは、ほとんどの会社がグッドになろうとしているからだ」という答えに惹かれました。
 あとは『論語と算盤』にしましょう(笑)。守屋淳さんのは、すごく噛み砕いてあるので、原著と比べるとわかりやすいですね。

― 渋澤さんの今後のビジョンをお伺いできればと思います。コモンズ投信がライフワークになっていかれるということでしょうか。

 実は、コモンズはやりたいことの半分なんですよ。論語と算盤の両輪でいうと、「算盤」なんです。もうひとつのやりたいことは、「オール日本コミュニティトラスト」を創ることなんです。ロックフェラーやビル・ゲイツじゃなかったとしても、一人ひとりがMY基金、つまり自分の基金をつくることができるという構想です。たとえば、50万円くらいで基金がつくれるように。普通は、基金をつくるのは大金持ちとしか考えなく、後世にお金を残す手段として基金をつくると考えます。でも、重要なのは金額の大小ではないと思います。ある程度仕事を通じて社会で活躍してきた人でしたら、基金をつれる仕組みをつくりたいのです。

 そうすれば、将来、誰でも自分の孫や曾孫に、こういうお祖父ちゃんがいたねって伝えていくことができるのでないかと思います。私の場合、4世代前に16人ほど大切な人がいました。その一人が渋沢栄一で、もう一人は栄一の奥さんの千代。でも、他の14人は知らないんです。そんな前の世代にどんな人がいたか知らないのが普通です。
 しかし、我々の時代だと、インターネットやサーバーがあるので、世界が絶滅したら話は別ですけど、「こういう時代に渋澤健という人が生きていました。MY基金を持っていて社会貢献していましたよ」ということが比較的簡単に残せるんです。私はこういう時代でこういう風に生きていましたという「ヒューマンアーカイブ」です。
 もしかしたら、基金の規模は50万円かもしれない。でも、その50万円をコモンズファンドに投資して、そこから毎年5%を寄付しますと。ファンドを毎年5%以上で回していけば、元本は少しずつ大きくなっていきますよね。そうすることで、寄付という「超長期投資」として後世の社会に還元する仕組みができるんじゃないかと思うんです。

― 壮大ですね。

 ちょっとお金があって、たくさんの想いがあって、サーバーさえ確保できれば、そんなに難しいことではないと思います。

― 基金というのは、財団ですか。

 財団です。普通、財団というのは誰かのまとまったお金で設立するイメージですよね。アメリカでは、コミュニティトラスト(財団)というものが結構あります。日本でも大阪コミュニティ財団*26というところがあるんですけれども、日本における公益法人の考え方では、なかなか難しいところもあるのではないかと思います。独自に仕組みを創ってもいいのかなと思っています。

― なるほど。色々なお話をしていただき、本当にありがとうございました。

[撮影:大鶴剛志]

*18 大衆から集めた資金によって会社を設立し、一人の人間が独占しないようにして事業を運営するという渋沢栄一の唱えた資本主義。この考え方に基づき、静岡藩の商法会所に始まり、第一国立銀行(現:みずほ銀行)、東京海上保険、東京株式取引所、日本郵船、東京銀行、日本銀行、足尾銅山、大阪紡績(東洋紡績)、東京瓦斯、帝国ホテル、帝国劇場、札幌ビール、清水建設、東宝など500もの起業・育成に関与した。
*19 事業のシード(種)があり、具体的な事業計画を立案中のベンチャー企業に投資される資金、あるいは立ち上げ直後のベンチャー企業に投資するベンチャーキャピタルやファンドのこと。
*20 渋沢栄一の人生については『小説 渋沢栄一 <上・下>』(津本陽/著、幻冬舎)が参考になる。
*21 坂本龍馬は、亀山社中(後の海援隊)設立、薩長同盟や大政奉還の成立に尽力した幕末の志士。後に三菱を設立する岩崎弥太郎とは、同郷で交流も深かった。
*22 岩崎弥太郎 三菱財閥の創業者。「三菱商会」を設立し、海運業をはじめ、財閥を築いた。土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作った。渋沢栄一や坂本龍馬と多くの交流があった。
*23 アダム・スミス。スコットランド生まれ、イギリスの経済学者。主著に『国富論』。近代経済学について著してある。古典派経済学の入門書として現代でも読まれている。
*24 日本の分子生物学者。筑波大学名誉教授。農学博士。1983年に、高血圧を引き起こす原因となる酵素「ヒト・レニン」の遺伝子解読に成功。パスツール研究所やハーバード大学を抑えての快挙であった。主著に『スイッチ・オンの生き方』『こころと遺伝子』など。
*26 大阪コミュニティ財団とは、国内第一号で、2010年4月現在、日本で唯一のコミュニティ財団である。マイ基金(My Fund)やアワー基金(Our Fund)として、名前や目的、寄付額を思いのままに決めることができ、「自分/自社の財団」を持つことができる。

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