出井伸之氏インタビュー

「非連続の飛躍 ~ソニーの成長とクオンタムリープの挑戦~」第1回

聞き手 / PE&HR株式会社 代表取締役 山本亮二郎

 1995年4月から10年間に渡って、グローバル企業であるソニー株式会社をはじめとする、ソニーグループを率いてきた出井伸之氏。CEOを退任後、2006年9月にクオンタムリープ株式会社を設立し、事業創造への仮説や成長機会をグローバルな視点で捉え、日本とアジアの飛躍的な進化を掲げて国際的に活躍されています。インタビューでは、井深大氏や盛田昭夫氏のお話をはじめ、ソニーがどのようにして世界的企業へと発展したのか、トップとしてどのような視点で経営されてきたのか、また日本の未来やクオンタムリープでの取り組みなどについてお聞きしました。

■人生最大の出会い

―出井さんが1960年4月にソニーに入社された当時は、社員数2,000人、年商80億円程の企業だったとのことですが、社会人になる時にどのような視点で企業選びをされたか教えて下さい。

 随分昔の話ですね(笑)。当時、メーカーで、これからヨーロッパで伸びそうなところを選びました。それが唯一のクライテリアでした。大きなところより小さなところにしようと、ちゃんと市場調査もしたんです。父の紹介で会ってもらった東洋経済(株式会社東洋経済新報社)の人に、こういうキーワードの会社はどこでしょうと聞くと、「そりゃあ、東京通信工業*1しかない」と言われました。
 今は大きくないけれども、これから伸びそうというカテゴリーで企業を選ぶというのは、現代でも適用すると思います。最近だったらサービス産業かもしれませんが、僕のときはメーカーで、「ものづくり」の会社に行こうと決めていました。

―伊藤忠商事や味の素にも興味を持っていたと書かれていました*2が、同じような視点でヨーロッパということだったのでしょうか。

 伊藤忠は魅力的な商社だと思ったのですが、メーカーにいこうと決めていましたので候補から外しました。味の素はヨーロッパで伸びるんじゃないかと思いましたが、もう少しコンシューマーよりの会社の方が良いと思ったので受験をしませんでした。

―『迷いと決断-ソニーと格闘した10年の記録-』の中に、就職活動でソニーを訪問した際、人事部長の樋口晃さんに無理を言って、品川本社まで井深さんに会いに行かれた時のことが書かれていました。その時、社長の井深さんは副社長の盛田さんと机を並べていらしたそうですが、実際にお会いになられた際、お二人にどのような印象を持たれましたか。

 一生懸命アピールしました。こういうクライテリアで選んで、だから使って欲しいということを言いました。そうしたら、二人とも顔を見合わせていました。あとで盛田さんが「ヨーロッパで事業を伸ばしたいって奴が来た」と喜んでくれたという話を聞きました。
 その時に、井深さん、盛田さんに出会ったのが人生最大の出会いでした。井深さん、盛田さんは、戦後に設立された企業で最高の経営者ペアだったわけじゃないですか。お二人に同時に会ったときは、雷に打たれたような印象を受けました。それはもう凄まじい、特別なものを感じました。二人の個性も違うなと感じました。
 面接のあと、井深さんから、明日からいらっしゃいと言われました。当然、早稲田の学生服を着ていたのですが、もうトレーニングだと。大学4年の夏休みを毎日ソニーに通って過ごしました。

―そのときにはお二人のことについて、どういう方々かよくご存知だったのでしょうか。

 あまり知識はなかったですね。井深さんのお嬢さんが成城学園の小学校で同級生だったので、友達のお父さんという感じで会いました。きちんと入社試験を受けたのですが、難しくて全然できなかったので、完全に落ちたと思いました。

―同期入社は何名ぐらいいらしたのですか。

 僕の時代は今思えばバブル期で、300名くらいいました。連帯感があって、今でも同期会を年に1回やっています。40~50名は集まるんじゃないかな。

■技術の筋をつかむ

― ソニーというベンチャー企業がこれだけの世界企業、そして優れたブランドに育っていく過程には様々な要因があったと思います。出井さんからご覧になられて、そして経営に携わってこられて、ソニーは普通のベンチャーとどこが一番違ったのだと思われますか。

 ソニーは、「技術の筋」*3をよくつかんでいました。それは半導体です。ソニーには、井深さん、盛田さんに続く第3の経営者として岩間和夫さん*4という方がいらした。岩間さんは非常に純粋な技術者で、半導体をアメリカから持ってきました。その筋が良かったのです。半導体の成長と共にソニーは、アプリケーションを伸ばしていきました。ラジオの周波数が上がり、オーディオ、アンプができた。そして、テレビ、ビデオになっていったわけです。半導体のアプリケーションが増えると同時に、ソニーの業態がクオンタムリープ(非連続の飛躍)したわけです。半導体発展の歴史には、ムーアの法則*5というものがあります。後から考えれば、ソニーの成長はこの法則に全く則った、絵に描いたようなパターンでした。
 僕自身も筋をつかむということを今でもよく口にしているのですが、筋をつかまないで、あれもこれもって企業は、なかなかうまくいきませんね。

 ソニーは、技術的な成長に賭けて、自らそのイノベーターになっていったわけです。東芝とか松下電器産業(現在のパナソニック)は、セミコンダクター*6の前に真空管を扱っていました。真空管を扱っていた人からすると、代替で世に出てきたセミコンダクターは欠点がいっぱいだなと感じていたのだろうと思います。しかし、ソニーは真空管を扱っていなかったからこそ、ルールブレーカーになったのだと思います。それが同時に次のルールメイキングになるわけです。真空管がなくなって、トランジスタ時代が創られることになりました。ソニーが壊したのは真空管の世界で、創ったのはトランジスタの世界です。僕は、その破壊と創造に偶然立ち会ったのです。

■ソニーのDNA

─ 人の側面でいうといかがでしたか。

 井深さんはどこまでも深い技術者で、盛田さんは武士道の魂を持った国際的経営者でした。井深さんは子どもの教育にもすごく熱心でしたし、脈診とかエスパーにまで興味がある人で、「月の裏には何があるか知っていますか」って聞かれて驚いたこともあります。井深さんは、そのような本当に満ち溢れた好奇心を、技術に向けられていました。盛田さんも技術出身でしたが、その好奇心はアメリカに向けられていました。
 同じ時代にアメリカで、松下幸之助さん*7は家事を楽にする白物家電を、井深さんや盛田さんはオーディオやラジオを見てきました。そして、松下電器は白物家電で成長し、ソニーは違う道で伸びていったのです。

 ソニーの凄いところは、井深、盛田、岩間のときのDNAやベンチャースピリットが、いまだに技術に込められているということです。おそらくDNAがみんなの中にあるんだと思います。ソニーは、どの時代の人も、そのDNAに触れているのです。売上高が80億円、100億円、1,000億円と、会社の規模がまったく違う時期に働いた人でも、話題は全然ずれないんです。それが面白い。OB会のときも、どの時代かで規模は違いますが、みんなソニーのことが好きだから、話題は尽きません。ある意味宗教みたいな感じです。OBは、自分が所属していたときとは違う会社になっているのに、いつまでもソニーにいた当時の思いは残るのです。例えば、3,000億円くらいのときに入った平松庚三さん*8ともそんなような話をしたことがあります。やっぱりDNAのようなものがあるんじゃないでしょうか。

第2回へ続く

[撮影:大鶴剛志]

*1 後のソニー株式会社。1946年、東京都中央区日本橋の白木屋(現在のCOREDO日本橋)三階に、井深大氏、盛田昭夫氏らによって設立。トランジスタをはじめとする革新的な技術開発に取り組み、ラジオやテレビ等の魅力的な商品を国内外に送り出し、急成長を遂げた。海外売上高比率が高まる中、世界の人々が覚えやすいブランド名を社名にしようと、1958年、ソニーに社名変更をした。なお、同年に東京証券取引所第一部に上場した。
*2 『迷いと決断 -ソニーと格闘した10年の記録-』第1章に出井氏がソニーに就職するときのエピソードが書かれている。
*3 『井深さんの夢を叶えてあげたい』『井深大語録』はじめ色々な本で、井深氏は技術や発明に出会ったときに「筋」を読んで、直感的に将来性があるかどうかを判断していたと紹介されている。井深氏の「筋」を読む力が、大衆に愛されるソニー製品を次々と生み出す原動力となっていた。
*4 井深大氏、盛田昭夫氏に次いで、ソニー4代目社長を務めた(初代社長は、井深氏の義父で前文部大臣だった前田多門氏)。東京大学の地震研究所に勤めていたが、義理の兄(岩間氏の伴侶は盛田氏の妹)でもある盛田氏に誘われ、東京通信工業(現ソニー)に入社した。トランジスタは、井深氏が可能性を見出したものであるが、開発を支えたのは岩間氏だった。1954年に特許を持っていたウエスタン・エレクトリック社を見学し、製造技術をまとめたレポートは「岩間レポート」として知られる。東京の開発チームは、その詳細なレポートによって一気に開発を進めることが出来たという。
*5 最小部品コストに関連する集積回路におけるトランジスタの集積密度は、18~24か月ごとに倍になる、という経験則である。インテルの共同創業者であるゴードン・ムーア氏が提唱した。
*6 電気をよく通す「導体」と、電気を通さない「絶縁体」との中間の性質を持つ物質のこと。代表的なものとしてシリコンがある。シリコンは半導体の原料として使われている。トランジスタとは、増幅機能を持った半導体素子のことで、ベル研究所が開発した。
*7 松下電器産業の創業者。1984年、和歌山県海草郡和佐村に生まれる。9歳で丁稚奉公に出され、商売を学ぶ。路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志し、大阪電燈(現関西電力)に入社。簡単に電球の取り外しが可能な電球ソケットを考案し、1917年独立。画期的な販売手法や先進的な経営を行い、一代で松下電器産業(現パナソニック)を世界に冠たる企業へと導いた。「経営の神様」と呼ばれ、現代でも多くの経営者に影響を与える。
*8 1946年生まれ。アメリカン大学(Washington,D.C.)コミュニケーション学科卒業。ソニー株式会社入社。ソニーで13年間勤務した後、アメリカンエキスプレス副社長、 IDGコミュニケーションズ社長、AOLジャパン社長などを歴任。2000年にIntuitジャパンのCEOに就任。2002年にMBOにて米国親会社から独立、社名を弥生株式会社に変更、同社の代表取締役社長に就任。2004年全株式を売却してライブドアグループ入り。2006年1月株式会社ライブドア社長就任。2007年4月社名をライブドアホールディングスに変更、代表取締役社長就任。2008年1月、小僧com株式会社代表取締役会長に就任。なお、小僧comの前社長である藤田憲彦氏もソニー出身で、2009年の衆議院選挙により36歳という若さで当選した。平松氏は、ソニー非公認のOB会「SOBA(Sony Old Boys&Girls Association の略、ソバと読む)」の設立発起人でもある。「SOBA」の会は、ソニーを飛び出して他社に活躍の場を求めた人達が年1回集まる会で、現役CEOやCOO、名誉会長などもゲストとして参加するという。会メンバーについては、『ソニーを踏み台にした男たち』が参考になる。

「非連続の飛躍 ~ソニーの成長とクオンタムリープの挑戦~」全4回