青木仁志氏インタビュー

「頂点を目指す生き方 ~世界最高峰の人材教育コンサルティング会社へ~」第1回

聞き手 / PE&HR株式会社 代表取締役 山本亮二郎

 1987年、人材教育コンサルティング会社「アチーブメント株式会社」を創業した青木仁志氏は、目標達成のプロフェッショナルとして19年間にわたり「戦略的目標達成プログラム『頂点への道』講座」を連続500回以上開催し、2万人を超える方々の研修をしてきました。インタビューでは、青木氏の人生の歩みを振り返っていただきながら、人生哲学や信念、アチーブメントの経営についてお話いただきました。

■17歳、溶接工見習いからのスタート

― 『一生折れない自信のつくり方』のなかにも書かれていましたが、17歳で社会に出られてから20代前半の頃まで、人生についてどのように考えながら日々過ごされていたのでしょうか。

 17歳の春に高校を中退し、そのまま社会に出たのですが、3歳で両親が離婚して、義理の母に育てられ、小学校を4回も転校しており、どちらかというと痛みを経験した子供時代でした。何とか生みの親に会いたい、北海道の環境から抜け出したいという気持ちが強かったんです。だから、向上心があってとか、成功を目指してとか考えて社会に飛び出したわけではなく、生みの母親を探すために家出をして、履歴書のいらない溶接工見習いとして社会に出たんです。本当に家出少年みたいな感じでした。

― お母さんと再会してからの暮らしは、いかがでしたでしょうか。

 じゃあ、どこで変わったんだろうって、『一生折れない自信のつくり方』でも自分なりに分析してみたんです。思い起こすと、そんな私を救ってくれたのは、再会した生みの母親でした。私は家出する直前まで北海道のおじいさんに預けられていましたので、家を飛び出してから、たった1枚だけおじいさんに葉書を出しました。「突然家出して悪かった。母親を探すので、自分のことは探さないでくれ。見つけたら連絡するから」という内容でした。その葉書の消印が八王子だったんです。その消印から、私が八王子の鉄工所にいるらしいという噂を便りに、生みの母親が、おじいさんから送られてきた写真を現像して、「この子を見たことないですか」と鉄工所を一軒一軒回ってくれたんです。半年かけて八王子市内を探し回り、8月になって、遂に私を探し出したわけです。
 それは私にとって本当に衝撃的なことでした。私が母親を探しに行くはずだったのに、母親の方から探しに来てくれた。母親にとっても奇跡でした。私がどこにいるか、全くわからなかったわけですから。それを、叔父さんと二人で、とにかく歩いて歩いて遂に探し出した。多分、変わったのはそんなきっかけですね。それまでは、何のために生きているのか、何のために生まれてきたのか、これからどんな人生を生きていくのか、全く軸のない自分でした。でも、母親がわざわざ自分を探して訪ねて来てくれたときに、母親に愛されていると感じることが出来たんです。人間として、存在して構わないんだと思えるようになりました。

 母親と暮らすようになってしばらくの間は、仕事を転々としました。ダメ人間のパターンですよ。何か気に入らないことがあるとすぐ仕事を辞めてしまう人間でした。人間関係が少しうまくいかなかったり、嫌なことを言われたりすると辞めてしまい、なかなか続かなかったんです。本当にいい加減だったし、成功の「せ」の字もまったくありませんでした。
 その後、母親と一緒に喫茶店を始めました。その喫茶店を一緒にやっている頃、お箸を納入していた会社の今津さんという社長との出会いが私の人生を変えたんです。社員が休みだったので代わりに納品に来られたのですが、すごくかっこ良かったんですよ。キャデラックに乗っていて、私は成功者のイメージを持ったんです。華やかな人でした。それから今津さんとお付き合いするようになって、「さとし、一緒にやるか」と誘っていただきました。母親と一緒に喫茶店をやっていたので、「今津さんのところで仕事がしたい」と相談したら、母もいいんじゃないと言うので、今津さんのもとで働くことになりました。

■「礼儀をわきまえること」が基礎教育だった

― その会社で、どのようなことを学ばれたのでしょうか。

 そこではいわゆる丁稚奉公です。まさに手取り足取り、徹底的に教育されました。例えば、喫茶店で「さとし、何食べるんだ」と言われて、「社長は何食べるんですか」と聞き返す。「俺はハンバーグライスにしようかな」と言うから、「じゃ、社長、僕も同じでいいです」と答えたら、「馬鹿、同じとはどういうことだ。目上の人間といるときには、1ランク下げろ」と言われました。何事に対しても、礼儀に厳しかった。いつも、礼儀をわきまえた営業をしなければいけないと言われていました。これが私の基礎教育でした。そんなことは、それまで誰にも教わったことがなかったんです。
 今津さんは、一度人に騙された経験のある方で、人生をリセットしてやり直しをしているプロセスでもあったんです。だから、人に対して良い意味で非常に厳しかったし、二度と同じ失敗を繰り返したくないという気持ちを持っている方でした。当時は会社を興してまだ日が浅く、少人数で一生懸命やっているときでしたので、マンツーマンで徹底して教育してもらいました。一度、焼け火鉢を握ったことのある人の経営ですから、私にとってとても良かったです。簡単に言うと、営業を叩き込まれました。

― どのような商品を扱っていたのでしょうか。

 母親とやっていた喫茶店にも納めてもらっていたお箸を扱う部門や、高級日用品を扱う部門がありました。商社でしたから、他にも様々な商品を扱っていて、商材を仕入れるために、香港に20回以上も連れて行ってもらいました。年に何回も仕入れに行って、高級日用品や雑貨などを輸入しては、テスト販売をしていました。
 今津さんはたたき上げの社長でしたから、「給料はもらうものではなく、稼ぐものなんだ」と、今思えば当たり前のことを、まだ修行中の私に教えてくれて、歩合給で働かせてもらいました。

 高級なライターとか、毛皮を扱っていて、母親が銀座のホステスをやっていたことがありましたので、母親に知人を紹介してもらって毛皮を売りに行き、結構成績が良かったんです。いい歩合も貰えましたし、会社も儲かっていました。でも会社経営は、儲かりすぎても上手くいかないんですね。今津さんともう一人の方が共同経営をしていたんですが、今津さんが辞めるという話になったんです。今津さんが辞めるなら、私も辞めてくっついて行こうと思ったんですけれども、今津さんは若い頃から創業していたので、「お前も自分でやってみたらどうだ」と言ってくれて、独立しました。
 有限会社ジュエリーワールドエンタープライズという、名前ばかり立派な会社でした。ところが、売り先にホステスさんが多かったので、売り掛けが大きくなってくると管理が出来なくなり、お店を辞めた人の回収ができずに、焦げ付くようになってしまった。営業力だけが支えで、資金繰りのノウハウはなくキャッシュが回らない状態でした。キャッシュがないから仕入れも出来ないし、結局、高利貸しみたいなところにまで行くようになってしまって、気づけば3,000万円の借金を抱え、これ以上会社を続けられないと判断し、会社をたたみました。第1回目は会社ごっこというか、独立して、経営と営業はイコールじゃないということと、いくら売れても経営管理ができなければ会社は成り立たないということを、20代の若いときに経験したんです。

第2回へ続く

[撮影:大鶴剛志]

「頂点を目指す生き方 ~世界最高峰の人材教育コンサルティング会社へ~」 全4回