「キュレーターによる情報革命 ~情報流通の今と未来~」第4回
聞き手 / PE&HR株式会社 代表取締役 山本亮二郎
『ブログ論壇の誕生』『電子書籍の衝撃』『キュレーションの時代』などの著者である佐々木俊尚氏は、IT業界・メディア業界のビジネス動向や未来像を鋭く分析する気鋭のジャーナリストです。著書だけでなく、雑誌やウェブメディアを中心に幅広く活躍されています。今回のインタビューでは、電子書籍市場の現状と未来像、Twitterやフェイスブックをはじめとするソーシャルメディアにおいて存在感を増しつつあるキュレーターの役割など、ウェブを取り巻く生態系がどのように変化していくのかお話いただきました。※本原稿は、2011年4月7日に行われたインタビューに基づき作成しています。
■フローとストックの情報から、最先端と世界観を得る
― インターネットのサービスや技術について、次に来る大きな潮流を、佐々木さんご自身はどのような方法で掴み、テーマにされていくのか教えてください。
それはとても重要な点で、情報には2種類あると思っていまして、それはストックとフローです。フローの情報は膨大な量が日々流れています。実際今、グーグルリーダーを使って読んでいるニュースサイト、ブログなどは、日本語と英語のものを合わせると大体700サイトくらいあります。1日に1,200記事くらいの未読数が流れているわけです。見出しだけチェックして1,200くらい、その中から数十本の記事を読んで、さらにその内の2割から3割くらいの記事をツイッターで紹介しています。こういうやり方でフローの情報をこなしているんです*19。
先端の情報はすごく必要なのですが、多分それだけをやってしまうと情報に溺れてしまうと思います。例えば、「iPadが発売されます」というニュースがあったら、「すごい」で終わってしまうわけです。iPadが発売されること自体、それはそれで個人的には気になるけれど、私が興味を持つのは、それ以上にiPadみたいなタブレットデバイスが出てきたことによって、世の中や我々の業界がどう変わり、更にそれによって社会や文化がどのように変容するかということなんです。そういう論考をするためにはフローの情報だけでは足りないんですよ。
そこで、ストックの情報を使います。ストックの情報は何かというと、基本的には本です。紙でも電子版でも何でも良いんだけど、まとまった世界観が提示されているものをきちんと読みます。私は本をすごくたくさん読んでいるんです。月に10万円以上は買っています。哲学書、政治学の本、歴史書、あるいは普通にビジネス書も読みますし、文学も読みます。ストックの情報で培っている世界観が非常に重要です。
本は殆どがネットで見つけたもの、キュレーションされたものです。膨大な数のブログを読んでいると、この人のブログは信用できるよねというものがあって、そういう人が結構本を紹介しているんです。そこで紹介されている本を見ると、これは面白そうというものがありますし、たまにしか見ないブログでも斬新な視点で本を紹介していると、どんどんAmazonで買っています。Amazonだけでも月10万円から15万円になります。
けれども、本を読む時間をとるのが大変なんです。基本的には、ぱらぱら読みはあまりしないことにしていて、旅行に行ったときとか、本を読む日を決めたりとかして、まとまった時間を取って集中的に読んでいます。
― 速読術などは身につけられているのでしょうか。
いや、ないです。ビジネス書とかは速読でもいいと思うんですけど、そういう風にして読める情報は別にWebで十分なので、しっかりした良い本をなるべくピンポイントで見つけて、きちんと読むというやり方がいいんじゃないかと思います。読みにくくて苦労する本もあるので、最初の50ページくらいを読んでみて、これは駄目だなと思ったら読むのをやめます。なるべく良い本にきちんと当たるということが大事だと思います。
■インターネットのソーシャル化は、市民社会の原点「コーヒーハウス政治」に似ている
― 佐々木さんの本には「IT」を中心にしたものと、それと相互に関係し合うと思いますが、『ブログ論壇の誕生』(2008年9月)、『2011年新聞・テレビ消滅』(2009年7月)、『マスコミは、もはや政治を語れない』(2010年2月)など「言論」そのものを扱ったものとがあるように思います。日本国内の言論、あるいはインフォコモンズ(情報共有圏)*20について、どのような可能性、あるいは課題があると分析されていますか。
世論とか論壇とかはマスメディア上で形成されるのが当然で、ネットに移るなんてあり得ないと思っている人がものすごくたくさんいます。ネットはノイズが多いということも言われます。しかし、非常に長いスパンで見ると、実はマスメディアが公共権を握ったのは18世紀くらいのことで、ここ200年くらいのことでしかないのです。
なんでそんなことが起きたかというと、歴史を辿ればとても簡単な話です。そもそも市民社会というものがイギリスやフランスで成立したのが17世紀の終わり頃から18世紀の初め頃なんですが、それまでの政治は貴族政治だったので、宮廷の中で政治が行われていました。王様と貴族による政治です。
それから徐々に産業革命が進行して、ブルジョワジーと呼ばれる商人の層が生まれると、彼らが政治に参加するようになりました。彼らは宮廷のメンバーではないので、結果的に宮廷の外側にあるカフェとかコーヒーハウスと言われる場所で議論をするようになり、そうした議論そのものが宮廷の政治に反映されるという状況が17世紀終わりに生まれたのです。市民政治の出発点として、当時よくコーヒーハウス政治と言われました。
しかし、産業革命が更に進行すると、これが成り立たなくなった。貧しい労働者階級がどんどん中流化していき、彼らが発言するようになるわけです。そうすると、政治の参加者が膨大な数に増えていきますよね。コーヒーハウスではとても収容できない数です。今までは何百人、何千人で済んでいた政治を、何十万人、何百万人、何千万人でやらなきゃいけなくなったのです。
そのような背景から仕方なく、コーヒーハウスやカフェの代替物として、マスメディアである新聞が生まれたわけです。これが、マスメディアが公共圏を握ることになるまでの大雑把な流れ*21です。
現代はどうか。インターネットという優れた、非常に細分化された情報流通基盤をもう少し洗練させることによって、かつてコーヒーハウスやカフェで行っていたことをネット上でやることが十分可能になってきています。例えば一つの問題に関して、その問題に詳しい人あるいはその問題に関するステークホルダーが、ツイッターとかフェイスブック*22とかを使ってネット上で議論することが既に可能です。新聞を経由する必要がなくなってきているのです。
単なる大衆化により生まれ、市民政治の代替物として存在していたマスメディアをわざわざ温存させる必要はなくて、再び我々は、新聞が生まれる前の、まさにコーヒーハウスやカフェでやっていたような政治を行う時代に戻っている可能性もあるんじゃないかということなんです。しかも、テクノロジーによって、ほんの少人数ではなくて、膨大な数の人たちが相互に関係するやり方でできる時代です。マスメディアは完璧だと思っている、あるいは理想の姿だと思っている人が多いのは間違いないのですが、今、我々はテクノロジーによる政治の変容の第一歩に立っているという現状認識です。
■今は、ネットの言論が世論になる時代への過渡期
― ソーシャルメディアの重要性が増す一方で、危惧についても書かれていたと思いますが、ソーシャルメディアを活用する上での問題点はどのように克服できるとお考えでしょうか。
そういう話になると、精神論に行ってしまったりするわけです。「リテラシーを高めることが大切だ」とか、「情報モラルを教育しましょう」とか、そんなのうまくいった試しは過去に一度もありません。結局アーキテクチャーで解決する話なのではないでしょうか。インターネット自体のシステムがまだ洗練されていないんです。
例えば、ツイッターが今回の震災で情報流通に非常に役に立ったということが言われています。実際、地震発生当初の段階で、自分や家族、友人などが生存しているかどうか確認する手段としてツイッターが極めて有効だったし、マスメディアに流れていない情報や専門家が発信した情報を流す手段としても有効でした。
一方で、ものすごくデマが流れたわけです。さらに言えば、デマを抑止できなかった。だから、ツイッターは駄目だという話が出ています。しかし、それはツイッターが駄目だったのではなくて、ツイッターだけでは情報流通の基盤としては不足があるということなんです。要するに、RT(リツイート)で拡散されれば、デマがどんどん拡がっていくのは仕様がないわけで、別の情報流通基盤が存在し、ツイッターと相互に連動させることで、デマではない正しい情報をきちんと押さえることができるようにする必要があると思うんです。それはフェイスブックみたいなものかもしれないけれど、まだ日本ではフェイスブックは600万人くらいにしか使われていなくて、全然普及していない。多分、ツイッターの3分の1程しかユーザーがいないと思います。将来的には様々なソーシャルなメディアが複合的に使われていくことによって、今までのネットの問題が解消されるような、トータルとしてそういう生態系ができてくる可能性はあると思います。そういう意味では過渡期なんです。
― その生態系はマスメディアに取って代わる影響力を持ってくると。
十分その可能性はあると思います。今でもツイッターで盛り上がるとそれが政治に反映するようなことが、民主党政権になってから徐々に始まっていますよね。更に加速して、つまりマスメディアが世論調査をして出てきたものが世論ではなくて、ネット上で盛り上がり、それがフィルタリングされた言論が世論になっていく時代が間違いなく到来すると思います。既に韓国ではそうなっています。
■佐々木俊尚から見た、起業家孫正義
あの討論は、さすがに後半疲れました(笑)。孫さんとお話したのは、あの時が初めてです。政府の委員で一緒だったことはあるのですが、話をしたことはありませんでした。孫さんについては本の中でも書いたんですけど*24、なんていうのかな、理論家ではないです。ものすごく緻密な分析をする人ではなくて、私みたいな分析とか論考とかで飯を食べている人間とは全然違う人種だなと感じました。普通の人間が持っていない、異様に野蛮なまでの実行力と決断力と熱意のある人だなとも思いましたね。こういうある意味乱暴な人が、日本を動かしていかない限り、今のような硬直化した状況は動かないんじゃないかと思います。言葉は悪いですが、暴君というか、乱暴者というか、そういう側面を持った人が必要ではないでしょうか。
ただし、孫さん一人だけでやっていると暴走するので、周りにブレーンが必要だと思います。ブレーンをきちんと集めることができれば、ああいう人が実際にリーダーになると世の中は変わるかもしれません。
■『AERA』で3ヶ月に渡り東浩紀氏を取材
― ジャーナリスト、社会学者、思想家、起業家などで尊敬する人物を教えてください。
尊敬という言葉があたるか分かりませんが、東浩紀(あずまひろき)*25さんに共感する点が多々あります。一語一語全てに共感しているわけではないのですが、考えている方向性とか、次の世の中がどうなるだろうとか、考え方の枠組みそのものが非常に自分と近いんです。去年の年末に『AERA』(2010年12月27日号)の「現代の肖像」という6ページの人物紹介の企画で東浩紀さんを取り上げた時、3ヶ月くらい取材したことがあって、それで彼についてよく知るようになりました。彼の思想をかなり詳しく調べて、勉強して、非常に共感したんです。それまでも勿論知っていましたけど、自分より10才くらい若い方で、オタク文化の分析をする人かなというくらいの印象しかありませんでした。あの取材を始めてから、全然そうではないと感じたのです。今の社会における東さんの位置付けが明確に分かっていなかったと思いました。実は非常に重要な人だと思います。基本的には、データベース型社会*26という言い方をしているのですが、要するに、既存の枠組み(物語消費)が崩壊する中で、どういう形で社会構造が変わっていくのかということを提唱している現代思想家であり、批評家です。社会構造がテクノロジー化していくところの発想が、自分に近いと思います。
― 特に影響を受けた書籍、映画などについて教えてください。
本については社会学の本が好きで、見田宗介(みたむねすけ)*27さんの一連の本が好きです。社会学に興味を持ったのは30代の頃です。1990年代後半は、宮台真司(みやだいしんじ)*28さんがやってきたことのインパクトが強くて「まったり」とか「終わりなき日常」とか、なるほどそういう風に社会を見るのかと、結構新鮮な感動を受けました。
映画では、『キリング・フィールド』です。ITやジャーナリズムに関心を持ったのは、学生時代に参加したパソコン通信上のオルタナティブな市民運動ネットワークだったことをお話しましたが、同じ頃、この映画を見たことが新聞記者を志した理由になりました。入れるところに入社して早く仕事をしたいと思って、あまり卒業する意思もなかったので、中退してしまいました。毎日新聞は学歴不問なので入社したんです。
■『オデュッセイア』から読み解く、100年後の本の姿
― 最後に、今後特に力を入れて取り組みたいテーマがありましたら教えて下さい。
電子書籍についての本を、もう一回年末くらいに出そうとしていて、『100年後の本』という仮のタイトルも決めています。本という形態、コンテンツ、あるいは書かれ方が今後どう変わるのかということを、過去の印刷の歴史とか、更にもっと昔の言葉の出現とかになぞらえて考えていくことが可能かなと思っていて、その手の本を積み上げて読んでいる最中です。
例えば、文字が発明される前は、口承文学でした。口承文学とはどんな文学だったかというと、記録が残っていないから誰にも分からないのですが、ホメロス*29の『オデュッセイア』や『イーリアス』は口承だったんじゃないかという説があります。それをホメロスという名前の人か別の人がまとめて叙事詩が作られたというのです。結局、口承文学は言い伝えで、どんどん中身が変わっていくわけで、ある意味、集合的な知識の修正というか、それこそソーシャルなんですよ。
そういう口承文学における本のでき方と、ケータイ小説*30のでき方とが実はすごく似ています。携帯小説も読者と掲示板でやり取りしながら、その影響を受けて、内容が変わっていきます。現代の本というものは、口承文学のような集合的知識を集めたものではなくて、一人の作家の孤独な営みによって書かれるものだと思われているわけです。そのようなスタイルが2000年とか3000年とか続いてきたのですが、ひょっとしたら再び集合的知識を集約する伝承的なものが大きな形になっていく可能性があるんじゃないかということを考えているんですよ。口承文学って一体どうやって作られていたんだろうとか、あるいは文字がどのように発明され、記録されるようになったのかとか、そのようなことを知りたいのです。そして、徐々に知識を積み重ねていって、本にしていこうと思います。このテーマについては、書き下ろしになるかもしれないし、どこかで連載するかもしれません。
― それは壮大なテーマですね。出版を楽しみにしています。お忙しいところ、大変ありがとうございました。
[撮影:大鶴剛志]
*19 『ひと月15万字書く私の方法 ITジャーナリストの原稿作成フレームワーク』(2009年6月)や『仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ』(2009年7月)で、佐々木氏の知的生産の方法が公開されている。
*20 佐々木氏が『インフォコモンズ』で提唱した概念で、情報共有圏のこと。情報を軸とした他者との相関関係により、それぞれの個人が「なめらかに」つながり、新たな仲間、新しい共同体を生み出す。このような個人と社会との新しい接続方法について、まだSNSやツイッターが十分に普及していなかった当時に予測していた。
*21 『ブログ論壇の誕生』の「はじめに」でも、ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバマスによる公共性の歴史と理論に関する著書『公共性の構造転換』が紹介されている。
*24 同書で「ソフトバンクはモンゴル帝国軍である」という一章を設け、13世紀にモンゴル大草原からユーラシア大陸までを制圧したチンギス・ハンによるモンゴル帝国軍の強さと勇猛さに、孫氏とソフトバンクをなぞらえて佐々木氏は記している。「野獣のような経営者が率いる、乱暴狼藉極まりない企業。それがソフトバンクだ。しかしそういう乱暴狼藉こそが、実は世の中を変えていく。従来のような調整型の決着だけでは、もうどうにもならないほどに日本の国力は衰退しはじめている」。野蛮なモンゴル帝国が世界の市場経済システムをつくり、後の世界史を塗り替えたように、孫氏のリーダシップに期待を寄せている。
*25 1971年生まれの批評家、作家。ポストモダン論からオタク文化などについて、現代社会・文化・思想に関する幅広い論考を展開。1999年、最初に上梓した『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』でサントリー学芸賞を受賞。2010年には、小説『クォンタム・ファミリーズ』で第23回三島由紀夫賞を受賞した。
*26 東浩紀氏が提唱する「データベース消費」型の社会。東氏は、1990年代後半以降、日本社会における消費モデルが「物語消費」から「データベース消費」に移行していると提唱する。例えば、『機動戦士ガンダム』(1979年放映開始)と『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年放映開始)のファンの消費の仕方を比較し、ガンダムでは架空の歴史(大きな物語)に熱中したのに対して、エヴァンゲリオンでは世界観よりもキャラやメカニックなどの情報の集積が必要とされていると分析している。
*27 1937年生まれの社会学者。東京大学名誉教授。コミューン主義の立場からの著作で知られる(ペンネームは真木悠介)。主要著作に『気流の鳴る音 交響するコミューン』『宮沢賢治-存在の祭りの中へ』『自我の起源-愛とエゴイズムの動物社会学』『旅のノートから』『現代社会の理論』『時間の比較社会学』などがある。また、個人塾「樹の塾」を主宰。主要な著作をテキストにしながら、共同探求の集団を目指し、年1回のゼミナールを開催している。
*28 1959年生まれの社会学者で、前述の見田宗介に師事した。首都大学東京教授。映画批評家でもある。女子高生の売春とコミュニケーションの変遷を描写した『制服少女たちの選択』、オウム真理教事件を題材にした『終わりなき日常を生きろ』など、独自の理論で1990年代の社会を解析し、多くの賞賛と批判を浴びる。最近の著作には『14歳からの社会学』『〈世界〉はそもそもデタラメである』などがある。
*29 紀元前8世紀末、古代ギリシアの吟遊詩人とされる人物。現代においてもなお、ホメロスが実在したのか作られた人物なのか、はっきりしていない。トロイア戦争をめぐる二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』はホメロスによる作品と考えられている。
*30 佐々木氏は『命の輝き』を書いた未来さんというケータイ小説家との出会いをきっかけに、『ケータイ小説家』(2008年10月)を出版した。同書では、10人のケータイ小説家へのインタビューを通じて、作家としての一途な思い、読者との間に生まれる共感や仲間意識、強い絆を描いている。