佐々木俊尚氏インタビュー

「キュレーターによる情報革命 ~情報流通の今と未来~」第1回

聞き手 / PE&HR株式会社 代表取締役 山本亮二郎

 『ブログ論壇の誕生』『電子書籍の衝撃』『キュレーションの時代』などの著者である佐々木俊尚氏は、IT業界・メディア業界のビジネス動向や未来像を鋭く分析する気鋭のジャーナリストです。著書だけでなく、雑誌やウェブメディアを中心に幅広く活躍されています。今回のインタビューでは、電子書籍市場の現状と未来像、Twitterやフェイスブックをはじめとするソーシャルメディアにおいて存在感を増しつつあるキュレーターの役割など、ウェブを取り巻く生態系がどのように変化していくのかお話いただきました。※本原稿は、2011年4月7日に行われたインタビューに基づき作成しています。

■大震災から見えた情報流通における課題

― 既にツイッター*1やメルマガ*2などでたくさんの情報を発信されていますが、まず、この度の東日本大震災について、お感じになられていることをお聞かせください。

 阪神大震災の当時、毎日新聞の記者をしていて、発生2日目から1週間くらい現地にいたのですが、あの時と比べると今回の大震災は大分規模が違います。なおかつ、原発事故による放射線の問題もあって、東京もある種の被災地的なものになりました。
 メディアとしての話をすると、一つは情報発信がうまく機能していないと感じています。必要とされている情報が場所によってものすごくまちまちになっています。阪神大震災は被災したエリアが50キロ圏くらいと狭かったので、日用雑貨等の必要なものはきちんと自治体によって管理され、皆さん一応揃えることができたのです。家を失った人、家は失っていないけど被災した人がいて、その直ぐ外側では普通の生活をしていました。そのため、勿論混乱はたくさんありましたが、被災エリア内への情報の送り込みとか、エリア内での情報の受け取りもそんなに難しくありませんでした。
 阪神大震災に比べると今回は被災した範囲が広大で、被災地の中でも、例えば、宮城県石巻市、気仙沼市、仙台市のように大規模な避難所が一応機能している地域がある一方で、三陸のように小さな避難所ばかりがものすごく点在している地域もあるし、福島県いわき市のようなあまり報道されない地域が膨大にあります。更に東京があり、地震での被災の大小に関係なく原発問題があります。地域によって求められている情報が全く違うにもかかわらず、各地にうまく情報を送り届ける手段がなくて、例えばテレビを見ると全部一律の情報しか流していないんです。そのため、情報の発信側と受け手側で、非常にミスマッチが生じています。
 もう一つは、情報流通基盤の問題です。ライフラインが切れていて電話も携帯も繋がらない場所があったり、例えばネットが使えるとか、テレビしか見れないとか、テレビさえ見れないとかいう場所があったりするので、場所によって得られる情報が全く違うのは非常に恐ろしい話だと思います。また、三陸の方は高齢者が多くデジタル・デバイド*3の問題があります。どうやって情報流通基盤をきちんと構築するのか、それこそワイヤレスで使える携帯のデータ通信はすごく重要になります。仙台あたりの報告を見ていると、地震発生当初は携帯が繋がったのですが、基地局の非常電源が切れると、同時にだんだん繋がらなくなったのです。そうすると「停電した状態でも携帯の基地局が長く存続するような環境をどうやって作るか」という課題をはじめ、今回の大震災は色々考えさせられることが多いと思います。

■ジャーナリズムはマスコミだけでいいのか

― ジャーナリズム、それからITについて、いつ頃から関心を持たれていましたか。

 それはものすごく古くて、新聞記者になる前の80年代、早稲田大学の学生時代からです。その頃、オルタナティブな市民運動ネットワークをパソコン通信*4上で形成しようという運動があったんです。当時、その運動に私も参加していました。自宅のパソコンからモデムを使って電話線経由で、インターネットではなくてパソコン通信につないでいたんです。オフ会をやって討論したりもしていました。そこが実はジャーナリズムとITのスタートです。
 パソコン通信では、記事を書いていたというよりは、掲示板上で議論していました。80年代当時の段階で既に「ジャーナリズムはマスコミだけでいいのか」みたいな議論をしていて、パソコン通信のようなところから新しいジャーナリズム的なメディアや言論が生まれるんじゃないかと語られていたんです。ただし、当時はものすごく規模が小さくて、ネットワークに参加している人は100人もいなかったと思います。全然広がっていませんでした。
 その後、毎日新聞の記者になってしまったので、あまりITに関する仕事はさせてもらえなくて、十数年延々と違う仕事をしていました。そのため、新聞記者を辞めるにあたって、ITの世界に戻ってこようと思いました。1999年に新聞社を辞めてアスキー*5に入ったのは、そういうバックグラウンドがあったからです。ジャーナリストとしてもITとしても、原点は学生時代なんです。

― 毎日新聞時代は、記者としてどのような仕事をされていたのでしょうか。

 新聞社では、社会部の事件記者をしていました。警視庁担当です。十数年の記者生活の中で、阪神大震災、オウム真理教事件、酒鬼薔薇聖斗事件と呼ばれた神戸連続児童殺傷事件をはじめとする一連の少年事件がありました。扱うテーマが大きいというか、社会に対するインパクトが大きいので、新聞としては大々的に取り上げるのですが、新聞記者の仕事は「今日誰を逮捕するか」とか「犯人は誰だ」とか、結局はいかに特ダネを押さえるかという方向に行ってしまうわけです。記者として一生懸命やっていましたけど、個人的にはあまり面白くありませんでした。第一に、新聞記者かどうかであるよりも、物事が起きる仕組みとか制度設計の問題とかをもっと明らかにしたいという気持ちが強くて、事象の分析や解析をするような仕事(*6)はあまりなかったものですから、実は新聞記者という仕事が途中からだんだん好きじゃなくなってきたんです。

 それと、とにかく忙しかったですね。オウム真理教事件の時は本当に酷かった。警視庁捜査一課担当だったので、捜査一課の警部、警部補、あるいは巡査部長あたりを、「夜討ち朝駆け」と言って回るんですよ。刑事さんたちの家まで行くのですが、家が遠い方が多かったので、大宮とか飯能とか下手すると土浦までハイヤーで行って帰りを待つわけです。24時を過ぎてもなかなか帰ってこない。0時半とか1時とかになって漸く帰ってくるので、それから話を聞いていました。当時、私たちは警視庁の記者クラブで会議をしていましたから、深夜に話を聞いた後、再び警視庁に戻ってきていました。打ち合わせを終えて、自宅に着く頃には夜中の2時を回ることもしばしばでした。地方公務員法に守秘義務違反というものがあるので、表向きは刑事から情報を取ると、その刑事が情報漏洩したことになり犯罪になります。そのため、昼間は刑事に接触してはいけないんです。だから結局、朝と夜、出勤間際と帰宅間際に話を聞くしかないので、朝方も夜と同じように、家まで話を聞きに行っていました。朝一番で家を出るときを狙って会いに行くのですが、それがまた早いんですよ。早い人は6時くらいに家を出ます。そうするとこちらは5時には自宅を出て、警察の人の家の前で待機していなければならない。深夜2時に帰ってきて、朝5時には自宅を出ますので、1日2時間睡眠くらいでした。それだと生きていけるわけないので、移動の車の中で寝たり、昼間に椅子で仮眠取ったり、細切れで何とか3、4時間の睡眠を確保していました。そういう生活が、半年くらいは続きましたね。
 警視庁とか東京地検みたいな事件官庁と言われるところの事件を担当する記者は優遇されていて、取材期間中は大体1人に1台ハイヤーがつきますから、特権的に見えるのですが、やっている方は身を削るようでした。

― 会社勤めを辞めて独立される時、どのような経緯、思いでいらしたのか教えてください。

 先ほどお話したように、新聞社では物事を掘り下げて分析したり、解析したりするような、私がやりたい仕事ができませんでしたので独立を考えるようになったのですが、新聞記者はフリーになっても、まず大体うまくいかないんです。新聞社はよく職種のデパートと言われまして、イラストレーターとか編集者とかデザイナーとか全て社内で抱えているんです。深夜に発行するから、即応できる体制でないといけないのです。外注に出すと納期が何日とかかかり、納期まで何時間という世界では間に合わない。だから、外注に出す仕事って一切ないんです。つまり、新聞記事には外部のライターがほとんど入っていない。そうすると、辞めても新聞社から仕事が来ないんです。一方で出版社は、基本的に社員編集者はほんの少ししかいなくて、割りと膨大な数の外部のライターとかフォトグラファーとかイラストレーターとかがいて、そういう人たちが仕事をしているんです。当時色々調べると、出版業界のほうがフリーランスは食べやすいということが分かり、新聞記者からいきなり独立すると多分食べていけないので、出版社に一旦就職した方が良いと思ったのです。自分の得意分野で、知り合いが少しいたので、それでアスキーに入ったんです。
 『月刊アスキー』に2年半くらいいました。その後、今はなくなってしまいましたが、『アスキー24』というニュースサイトに移って、それで辞めて独立しました。新聞社を辞めたのが38歳の時なので、独立したのは41歳のときです。

第2回へ続く

[撮影:大鶴剛志]

*1 佐々木俊尚氏のツイッターアカウントは@sasakitoshinao
*2 毎回4,000文字以上に渡り、ブロードバンドの普及とITのブレークスルーがビジネスの世界にどのような激変をもたらすのか、仔細かつ奥行きのあるレポートを配信。「ネット未来地図レポート」を参照。
*3 情報技術(IT、特にインターネット)を使いこなせる者と使いこなせない者の間に生じる経済格差。
*4 専用ソフト等を用いて、パソコンと特定のホスト(サーバ)をつなぐデータ通信手段やそれを用いたサービス。インターネットが全世界とつながる開かれたネットワークであるのに対して、パソコン通信は特定のサーバとその参加者に限定された閉じられたネットワークである。日本の商用パソコン通信は、ニフティとPC-VAN(日本電気が運営)が大きなシェアを占めた。
*5 株式会社アスキーは、郡司司郎氏、西和彦氏、塚本慶一郎氏(インプレスグループ創業者)らによって1977年に創業されたコンピュータ関連の雑誌、書籍等の制作を行っていた企業。プロフィールにあるように佐々木氏は『月刊アスキー』を担当していた。同誌は現在『月刊ビジネスアスキー』と名前を変え、角川グループホールディングス(東証1部 9477)傘下の株式会社アスキー・メディアワークスに引き継がれている。

キュレーターによる情報革命 ~情報流通の今と未来~ 全4回