浜口隆則氏インタビュー

「起業の専門家が追求する未来 ~起業家を増やし、社会を幸せにする~」第2回

聞き手 / PE&HR株式会社 代表取締役 山本亮二郎

 株式会社ビジネスバンクグループ代表取締役であり、『戦わない経営』『社長の仕事』『エレファント・シンドローム』などの著者でもある浜口隆則氏は、起業家向けオフィス「オープンオフィス」を立ち上げ、レンタルオフィス業界を作ってきました。2012年、新たなステージに向かうためにオープンオフィス事業を譲渡。現在は起業家教育事業をはじめ、起業を総合的に支援する事業を展開されています。インタビューでは、創業から現在に至るまでどのような思いでどのように事業を発展されてきたのかお話いただきました。※本原稿は、2013年5月20日に行われたインタビューに基づき作成しています。

■「雪が降っても自分の責任」

― 創業から3年くらいは、非常にきつかったと書かれていましたが、どのような心境でしたでしょうか。

 本当に死ぬ思いでしたね。地べたを這い蹲るとはこう言うことかという感じでした。お金が毎日足りず、毎日お金の心配をしていました。そうかと言って悲壮な感じで仕事をしていたわけではありません。厳しいながらも、なるべく楽しんで仕事をしていました。思う存分仕事ができることは楽しいじゃないですか。社会的にも新しい事業を手がけているという喜びもありました。厳しさと辛さ、楽しさと喜びが常に同居しているような感じでした。
 レンタルオフィス事業は待ちの営業になるので、集客が本当に難しかったです。当時はインターネットがありませんでしたから、毎朝ポスティングしながらオフィスに向かいました。食いつなぐために経営者向けにパソコン教室をやったりもしました。パソコンがまだ珍しい時期で、皆パソコンをやらなきゃと思い始めた頃でしたし、経営者向けなら起業支援にもなると思いました。それがきっかけで評判になって、受講いただいている経営者の方の会社全体の研修を発注してもらうようになり、一時期はパソコン事業でキャッシュを回していました。長野で1年オフィス事業をやったら、東京に出ようと思っていたのですが、本格的に東京に進出する前は、パソコン事業を中心にした方が良いのではないかという社内の意見も出ていた程です。

― どのご本にも書かれている、私も大好きな「雪が降っても自分の責任」という言葉は、当時のどういう状況から思い至ったのでしょうか。

 とにかく追い込まれていたんですよね。何をやってもうまくいかなかったんです。経営について分かっていたつもりでも、実際やってみると全然できなかった。長野は雪が多く、オフィスの入り口に前の晩の雪が積もると、お客様が中に入れないんです。オフィスの時間貸しもしていたのでお客様がいらしたときに中に入れるように、雪の日は朝早く出勤して、少なくとも1時間かけて入り口の雪かきをしなければなりませんでした。雪かきをしている時にいつも「これでまたお客さんが来ないかもな」と思っていたのですが、ふと「お客さんが来ないことを雪のせいにしている」と気付いたのです。雪を降らせないようにすることは自分にはできませんので、雪が降っても自分の責任だと考えてやってみようと思ったのです。私はスポーツをしていたので、うまくいかない理由を人のせいにすることはそれほどなかったと思いますが、どれだけやっても全然うまくいかなかったので、今考えると10%くらいは人のせいにしていたと思うのです。その頃は、創業して2年くらい経っていましたが、赤字続きでお金も全く足りていませんでした。
 100%どころか120%が自分の責任だと思うようにして、あと半年やってみて、それでも駄目なら事業をやめようと思っていました。そして「雪が降っても自分の責任」と覚悟してやり始めたら、不思議とうまくいき始めたのです。
 オフィス事業に大きな変化があったわけではないのですが、先ほどお話したパソコン教室をきっかけにして会社全体の研修を任されたり、コンサルティングをご依頼いただいたりして、お客様から仕事をいただけるようになって、キャッシュがつながるようになってきたのです。少しずつ余裕が出てきて、1999年4月に、東京に進出することができました。

― 東京では、どこからスタートしたのでしょうか。

 西武新宿線の新宿駅の近く、住所で言うと歌舞伎町です。ミサワホームさんのビルがあり、たまたまそこを借りていた知人からスペースが空いたと紹介されて、スタートすることができました。長野の1号店は、お金がないにもかかわらず、物凄くお金をかけて作ってしまったので、もっと低コストで始めないといけないと思い、初期投資をかなり抑えて250万円くらいで12室を作り、始めました。
 オープン当初、起業家向けのオフィスが長野から東京に出てきたと日経新聞に小さく掲載されたので、結構お問い合わせをいただいて、なんとか赤字にはならずに運営できていました。4月にオープンしたばかりでしたが、その年の12月にビルを紹介してくださった方が退去しなければならなくなったので、私達も一緒に出ることになり、西新宿の別のビルに移りました。8室で再スタートして3ヶ月ほどで全室埋まったので、2000年2月に、渋谷にもオフィスを出しました。渋谷はITベンチャーが多く、当時はビットバレー*2と呼ばれていました。インターネットによる集客も出来るようになってきたので、2000年あたりから経営状況が良くなってきました。

― 最終的には約500室まで増やされましたが、プロトタイプと言えるのは、長野、西新宿、渋谷、どの拠点になりますでしょうか。あるいは他になりますでしょうか。

 オープンオフィスの原型は渋谷の次に出した青山のエビヤビルです。立地の考え方、内装の考え方、条件の考え方など、全てこのパターンで作れば良いんだということが分かりました。青山は14室で始めました。

― その間、出店にかかる敷金や内装費はどのように調達していったのでしょうか。

 長野では信頼される会社になっていて、収支状況はよくなかったのですが、2年目には銀行から借入が出来るようになっていました。保証金にかかるお金だけを借りて、内装費は自分たちで何とかするという方針で出店をしていきました。

― 弊社が創業した2003年にオープンオフィスを利用させていただき、大変お世話になりました。その頃には、テレビ出演をされたり、色々なメディアで取材されたりしていたと思いますが、「あまりメディアに出たくないんです」というお話をされていました。また当時、出来るだけ社員を増やしたくないというお話もお聞きしたことがありますが、どのようなお考えからでしょうか。今はたくさんの方を採用されていると思いますので、考え方が変わったとしたらどのような背景からでしょうか。

 当時メディアに出なくなった一番大きな理由は、あのまま色々なメディアに出続けると調子に乗ってしまうのではないかと思ったからなんです。メディアに出ることがなんとなく虚構な感じがしたのです。自分が広告塔にならなくても事業がきちんと回れば良いという考えを持っていました。メディアに出ないというよりは、顔を出さないようにしていました。そうすることで悪い意味での自己顕示欲を抑えられるので、そのような制限を自分に課していました。
 起業家として、人間として、時代のアンチテーゼみたいなものを体現したいと思っています。物事は、弁証法ではないのですが、右に行ったり、左に行ったりしながらだんだん進化、成長していくじゃないですか。例えば、資本主義に寄り過ぎたら共産主義が出てきて、共産主義に寄り過ぎたら自由主義が出てきてと、そのようにして社会が少しずつ発展してきましたよね。私達の経営状態が良くなってきた2002年や2003年頃は、時価総額経営 という言葉がもてはやされ、大きいことが良いことだという考えが世の中にありました。ひょっとしたらそのような風潮の最後の頃だったのかもしれませんが、私自身は、これからはキープスモールになっていくと思っていました。会社の単位もどんどん小さくなっていった方が良いと思っていました。アメリカ型ではなく、ヨーロッパ型の経営や会社のあり方を学ばなければいけないし、日本で体現しようと思ったのです。10人以下で一人あたりの生産性が大企業並みにめちゃくちゃ高いというような会社を目指していましたので、あまり人を採用しようとは考えていなかったのです。
 そのように経営をしてきて、小さな会社でもこんなに収益性を高めることができるということに満足することができました。それで自分なりの区切りもついたので、創業して10年の節目を迎えた時に、このまま小さな規模で事業をしていても、「日本の開業率を10%に引き上げます!」という自分達のミッションを実現するのは難しいのではないかと思うようになりました。それで、人を増やして組織を拡大し、事業をさらに成長させようという考えに変わりました。

第3回へ続く

[撮影:大鶴剛志]

*2 東京・渋谷のインターネット関連のベンチャー企業が集中する周辺地域を指す呼称。渋谷の地名から、(渋い:Bitter)と(谷:Valley)をかけて「Bit Valley」と命名されたもの。1999年2月に渋谷周辺のベンチャー企業の経営者らが発表した、有能な起業家を輩出しようとする活動「ビットバレー構想」がきっかけとなり、渋谷がその拠点となっていた。最盛期には、世界の要人が集まるダボス会議からソフトバンクグループの孫正義氏が飛行機をチャーターして帰国し、イベントに駆けつけた。2000年のITバブルの終焉とともになくなった。

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